「三島夫婦との思い出」
             (夫妻の同窓生でありマラソン仲間)  木内 郁男

 心のなかの空白を感じる毎日です。それではダメだ、強く生きなければと、
思い直しても・・・。
 夫婦との出会いは学校生活からです。早苗さんとは文化祭で、「イワンの
バカ」の演劇をした時に、私がイワンで、早苗さんがその妹でした。夫婦とは
学年が違ったので、早苗さんと話ができたのは、それが初めてでした。確か
高校二年の頃でした。
 すでに二人は交際中のようでした。早苗さんは明るく、優しい女の子でした。
康幸君とは寮生活を共にしたことがあります。彼は朝食前に一人で
淀川堤防までランニング、放課後は柔道部で練習、週末はアルバイト、
夏休み等もアルバイト、彼はその頃から苦労を背負う生活をしていました。
康幸君とは学年が違いましたが、理療科のコースの違いで卒業年が同時期でした。
 就職を決める際、康幸君は初任給の一番高い岸和田市民病院を
選択しました。私は大学病院であることから、大阪医大病院に就職しました。
ここで二人の進路は決まったようです。その後に同じ病院勤務者として
親友関係が成立しました。彼は安定した市民病院の生活を基盤に、
就職後2年で早苗さんと結婚し、マンションも、結婚2年後で購入しました。
ほんとうに着実で安定した生活でした。
 康幸君は学生時代、体育祭の1500m走では、5連覇をし、職場での
駅伝部の走り、そして市民マラソンのブームにのって、マラソンへと進みました。
初マラソンは1986年第14回ホノルルマラソンで、記録は3時間15分ほど
だったと思います。早苗さんの初マラソンは1888年ナハマラソンで、
記録は4時間30分だったと思います。ナハマラソンは夫婦走です。
私もそれから何度も国内外のマラソン大会へ行きました。
 ゴールドコースト、ホノルル、ナハ、宮崎、小田原、大分、数えきれません。
 夫婦はいつも伴走で走り、まさに地球を一周するほど走ったかもしれません。
 初マラソンから、康幸君はソウルパラリンピック、フェスピック、バルセロナパラ
リンピックと、スピードマラソンランナへと進み、早苗さんはボランティアの伴走者
の力を得て、100キロマラソン等のウルトラマラソンへと進みました。二人は
仕事以外の時間は全て走る時間で、康幸君は勤務後の夜に走り、
早苗さんは昼に、時として伴走者と夜の長居公園を毎日のように走りました。
私も一緒に走ったこともあります。
 早苗さんは仕事、スポーツ、家事、親の介護をこなし、ほんとうにガンバリ屋
でした。康幸君も1秒でも速く走るために、血がにじむような、トレーニングをしました。
 人間ドッグでは、スポーツ心臓、貧血を指摘され、さらには痛風発作を
起こしました。痛風の原因は過度なトレーニングです。全盛時に岸和田の
マラソン大会での2時間37分の記録は7位入賞で、陸連公認記録で、
雑誌にものり、この記録が視覚障害者日本最高記録です。現在も破られて
いません。
 二人は私にいろいろなことを教えてくれました。
「生きる」ことのすばらしさ、努力すれば結果が出ること、二人は常に多くの人の
目標でした。
 二人の死、2001年4月28日、私はいまだに信じられません。いまだに長居
スポーツセンターに行けば二人に会えると思ってしまいます。私も二人のおかげで
フルマラソンを30回完走し、3時間台の記録も出しました。
 これからの人生、「きうっちゃん何やってるの?」という二人のことばを胸に、
しっかりと生きて行こうと思う今日この頃です。
 さようなら、ヤスベー、サナゴン!!
                         2001年7月20日 木内 郁男


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