「想い出」
                     ランニング仲間 高橋 禎三

  2001年4月28日夕刻、私は台所でうろうろしていた。隣の部屋でテレビが
その日のニュースを報せていた。聞くともなく、そのテレビの音声が途切れ途切れに
私の耳の中に入ってきた。私はあるニュースに耳を止めた。そのニュースは、
大阪で夫婦の視覚障害者ランナーが車に引かれて亡くなったという内容だった。
それを聞いたとたん、私の心の中に、もしかして?という不安と、そんな馬鹿なこと
無いわという楽観的な思いが交錯した。私はテレビの次の声に神経を集中した。
テレビは伝えた。“死亡したのは三島康幸さん(47)、早苗さん(46)のお二人”。
私は耳を疑ったが紛れもない事実だった。私はしばらく全身から力が抜けて、
何もする気も起こらなかった。
 私は1990年7月、友人家族総勢10名でランナーズ社が企画したゴールドコースト
マラソンのツアーに参加した。このツアーで三島さんご夫妻にお会いした。
三島さんご夫妻も 友人5〜6名のグループで参加していた。三島さんご夫妻は
移動のとき、いつも奥さんがご主人の肩に手を置いて、仲良く移動されていた。
康幸さんは大会終了後行われたツアー内部の表彰式で、男子ハーフの部で
1位となり表彰された。次の日、私は康幸さんとお話しする機会があり、そのとき
日本盲人マラソン協会(JBMA)のことを教えていただいた。私が三島さんと
お会いしたのは、そのときが最初で最後です。
 さて私はツアーから帰って早速、三島さんに教えて頂いたJBMAに入会した。
そのうち、我が家にもJBMAの会報『絆』が届くようになった。あるとき、『絆』を
読んでいてびっくりした。三島康幸さんが、バルセロナパラリンピックマラソンの
日本代表として紹介されていたからだ。その上、ソウルのパラリンピックのマラソンでは 
4位入賞されていたのだ。三島さん、そんな素振り少しも見せませんでした。
その後、康幸さんはバルセロナパラリンピックマラソンで5位入賞されました。
早苗さんは、その後距離を徐々に伸ばされウルトラマラソンに挑戦されました。
お二人のご活躍のほどは『絆』、テレビなどを通して存じあげていた。そして影ながら
応援していました。たった一度の出会いでしたが、康幸さんの冷静で偉ぶらない態度、
いつも康幸さんの肩に手を置いて移動する早苗さんの姿は、私に強烈な印象を
残しました。
 今私は、JBMA、BansoMLの会員として多くの仲間に支えられ、生きております。
そのきっかけを作ってくれたのが、三島さんご夫妻です。本当にありがとうございます。 
願わくば天国の三島さんご夫妻、私たちを空の上から見守っていてください。
本当にありがとう。


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本文終わり