「三島康幸君、ありがとう、そしてさようなら・・・」
            岸和田市民病院リハビリテーション科  松浦 英夫

 私が、三島康幸君と出会ったのは、1975年の4月であった。彼は、21才の青年。その年、大阪市立盲学校を卒業して、岸和田市民病院に就職してきたのである。以来、26年間、職場を共にしてきたのだが、彼からは、言葉に尽くせないほど、いろんな場面で助けてもらったし、また一回り年長の私が、教えられることも多かった。
 彼との別れが、こんな辛い形で訪れようとは・・・。今だに信じられない気持ちである。
 彼には、初めて会った時から年よりは、落ち着いた印象を受けた。後から聞いた話では、お父さんを中学3年の時に交通事故で失い、その後は、苦労しながら卒業したと言うことだった。こうした厳しい状況が、彼に、人に対する優しさと、厳しい練習に耐えて、フルマラソンを走りぬく、粘り強さを与えたのかも知れない・・・。
 職場では、他の職員からの信頼もあつく、最近はムードメーカー的な存在でもあった。仕事っぷりは、真面目で、患者さんからも、頼りにされていた。弱視者でありながら、職場の細々した事務処理なども、進んで引き受けてくれていた。
 私との関係では、私が全盲、彼が弱視と言うこともあって、文字を書いたり、読んだりする事を始め、例えば、職場での飲み会など有ると、さりげなく私の横にきて、面倒をみてくれたりもした。私が、今の職場での勤めを続けられたのも、彼がいてくれたからと言っても、決して過言ではない。
 走ること、これは彼の人生の大きなテーマだったと思う。就職してから、何時からかは、さだかではないが、岸和田市役所の陸上部に属して、岸和田市民駅伝にさんかするようになった。その後、どんなきっかけでフルマラソンをはしるようになったのかは、覚えていないが、たぶんホノルルマラソンが最初だったと思う。それ以後、ソウルや、バルセロナのパラリンピック出場へと繋がっていくのであるが、この時期の彼は、実によく練習していた。仕事が終わって、暑い日も、寒い日も、そして雨の日も、職場の近くの公園を15kmから20kmぐらい走ってから、1時間以上もかけて、家路に着いていた。土曜日や日曜日はもっと長い距離の練習をしたり、レースに出たりで、ほぼ、走ることに明け暮れしていた日常だったと思う。その頃の彼は、常に緊張感が漂う感じで、一本糸が張りつめているようなとこ
ろがあった。
 と言っても、たまにパチンコで勝った話や、これも彼の趣味の一つだった玉突きの話もしていた。それに、オーディオのマニアでもあったので、良くその話もしていた。最近は、パソコンをやり始めていて、彼は、その性格からか、先ず説明書をきっちり読んでからとりかかると言うことで、一つ々確実にクリヤーしていく方法で、自分のものにしていっていた。
 走ることに話を戻す。彼は、自分のレースのことや、記録のことはこちらから聞かない限り、殆ど話すこともなかった。実は、私も今年から走り始めたのであるが、彼と走る話をする中で「ソウルでは、1秒差でメダルを逸した。たった1秒、されど1秒」とか、バルセロナでは、暑さのために、レース後点滴を受けたことなど。 始めて話してくれた。彼のピークだっった10年間(たぶん、1985年〜1995年頃)は、国内の視覚障害者関係のレースでは、負けることはなかったのでは・・・。
 ここ数年の彼は、それまでのトレーニングの影響か、痛風を発症し、薬を常用しなければならなくなったり、血尿が出たので、夏場はあまり走らないように医者から言われたとかで、自分の練習より早苗さんの伴走者を務めることが多くなっていた。競技者として頑張ってきているのを見ていただけに、そんな彼は、私からは何となく寂しそうに見えた。そんなこともあってか、最近の彼は、それまでのどこか緊張感の漂うと言った感じから、とっつきやすく、柔らかい雰囲気に変わってきていたように思う。
 今後彼は、伴走者として、走ることに関わり続けるつもりだっただろうし、身障者スポーツの大会の審判員を務めたり、そのための研修を受けたりして、これまで彼が培ってきたものを、後の人に渡そうとしていたに違いないと私は思っている。
彼は、きっと視覚障害者のスポーツ、とりわけ走ることについての素晴らしい指導者になってくれるに違いなかったとおもうだけに、今回の出来事は、この点からも残念でならない。
 早苗さんとは、彼らの結婚式で会ったのが最初だった。彼女からは、爽やかな、明るい印象を受けた。その後、会う機会はなかったが、私が走り始めたことで、今年3月の京都の大会で会って話たのだが、それが色々話する最初で、最後になろうとは・・・。
 最後に、三島君
ほんとに長いあいだ、ありがとう。君にはほんとに言葉に尽くせないほどお世話になったね。それにしても、年上の僕が、君達の追悼集を作ることになろうとは・・・。
人生って、何て非情なんだと思う。
 頼りにしていた君が亡くなってしまって、僕の走るのをどうしようかと思ったけど、ここで止めては君にいずれ会った時に怒られそうなので、頑張って練習してるよ。当面は、ホノルルを歩かずに完走する事、ほんとは「どうや、完走したで」と ちょっと誇らしく、君に一番に連絡しようと思っていたのに・・・。
 そして、出来れば君がベストタイムを出した、泉州マラソンにチャレンジしようと思う。君の写真をTシャツにプリントして走るからね。
 拙い走りではあると思うけど、笑わないで、空のどこかから見守っていてくれよな。今は、元気な限り、走り続けようと思ってる。勿論、山歩きも止めないけどね。
 君は、早苗ちゃんと二人、手を携えて、なんのバリアもないだろう天空を、心ゆくまで大好きな走りを楽しんでね。これまでのように、ゴールも、タイムも気にすることなくね。そして疲れたら、好物のバナナや、カレーを食べながら・・・。
 「長い間、ほんとにありがとう、そしてさようなら」 「合掌」
                                  松浦英夫


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