先生があまりに突然いなくなってしまったので、哀しいという感情だけでも持て余しているのに、後悔の念まで押し寄せてきて、気持ちの整理がまだできません。
一緒に働いて10年以上。最初は怖かった先生といつの間にあんな風に言い合える仲になったのか。いつも私の文句の聞き役で、私のわがままの処理係で大変だったことでしょう。たまに本気でむっときたのか「俺にも少しは気を遣えよ。」
とか「なんで俺にはそんなにポンポン言うねん。」と怒ったような、情けないような顔で言われたこともありました。
せっかちな私は、思いつきで職場の模様替えなどを突然始めることがあって、そんなときも「昼休みまで待ちぃな。やったるから。」と言いながらも付き合ってくれました。
私がフルマラソンに初挑戦したときには、練習メニューの作成、日々の練習、 レースの体験として10キロマラソン大会の参加、休日のハーフ、レース前の30 キロ、そして那覇での本番まで付き合ってくれました。きっと先生はマラソンの素晴らしさを私にも伝えようとしてくれたのでしょう。先生に助けてもらわなか
ったらやってみようとは思わなかったし、スタートラインに立つまでもいかなかったし、最後まで止まらずに走れませんでした。
レース前半は優しく励ましてくれていた先生が、35キロを過ぎて「足が痛い。」 と泣き言を言い始めると「何でもえーから足前に出せ!そしたらその分進むんや。」
とつっけんどんに対応してくれた時には「私という人間をよく知ってくれてるな ぁ。」と、ばてばてになりながらも感激したのを思い出します。
「マラソンを経験すると人生観が変わると聞いたので確かめたい。」と動機を話した私に、レース後先生はどうだったかと聞きました。数ヶ月間の練習と本番を乗り越えた経験はもちろん私に大きな感動と影響を与えてくれたのですが、あまのじゃくの私はそれを素直に言えずに「どーかなー。」とごまかしたような覚
えがあります。
こんな風に私はいつもいつも、三島先生には自分勝手に好き放題接してきまし た。それを先生は受け止めてくれていたので、この居心地の良い環境を“当たり前”のように感じ、ずっと続くものだと思い込んでいました。三島先生がこんなに早くいなくなると知っていたら、今までのお礼も言っておきたかったし、謝り
たいこともいっぱいあったし、フルマラソンを経験してみて良かったと思ってることも伝えたかったと悔やんでいます。
今でも無意識に先生に話しかけそうになります。我慢できないときはスタッフ ルームに誰もいない時を見計らって先生の机に飾ってある写真に向かってしゃべ ります。もちろん返事はありません。生きていると大切なものを失うことがあって、でも後戻りはできないということを実感させられる瞬間です。
三島先生、今まで本当にありがとうございました。これからは何かある度に先生を呼んで甘えることはできないので、独り立ちできるようにボチボチ頑張ってみます。先生が亡くなってから見た夢の中で、先生と奥様はトレーニングウェア
姿で、周りを緑に囲まれたグラウンドに立っていました。「こっちはいいでー。 おいでや。」と誘われたけど、まだちょっと早いので断りました。でももしあの グラウンドに先生がいるのなら、いつかまた会えますね。
市立岸和田市民病院 リハビリテーション科 安藤恭子
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